第六〇回
【第一部構想発表】
「どうすれば自分自身でいられるのか――タウテゴリーについて」
三河 隆之
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ほんとうに自分自身でいることは容易なことではない。これは
資本主義と欲望の網状空間にのみ特異なことではなく、自分という
境位からもはや決して脱却しえない人間の本来的アポリアですら
あるように思われる。とはいえ、実践的課題に対峙する以上、
主体のSにスラッシュを引いて事足れりとすることもまた難しい。
悟りがしばしば特権的な遠い境地であるのは、抗いがたい現実である。
本発表は、このような困難に対峙する手がかりとなるかもしれ
ないものを垣間見る試みである。それを示す言葉のひとつが
「タウテゴリーTautegorie」である。後期のシェリングが若干の
箇所で用いたこの語は、後にカッシーラーが『シンボル形式の哲学』
第二巻で注目することになるが、当然ながら同時代のベンヤミンも
想起されるところである。また、ジャンケレヴィッチもこの語を
独自に受容しさかんに用いている。主として神話論の文脈から引き
出されてきたと見られているこの概念は、いったいいかなる射程を
持っているのか。原テクストをやや慎重に見定める作業を通じて
考えてみたい。
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【第二部発表】
「主体性の倫理学――D・ヘンリッヒのカント解釈――」
山蔦 真之
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今日の古典哲学研究、とりわけ古典的ドイツ哲学の研究は、
学問的な資料研究と哲学的思考の間である難点を抱えているように
思われる。それは、資料研究の末に明らかになった古典的思考が、
どのようにして・どの点で我々自身の哲学的思考と連関しえるのか
という疑問に対し、明確な回答が与えられていないことである。
そのような疑問は、とりわけ倫理学的問題を扱うときに明確に意識
されると思われる。なぜなら研究者が倫理学にたずさわるとき、
どんなに詳細な文献研究にその目が向けられていようとも、何らか
の形で倫理的課題が我々自身の課題であること、そして倫理学研究が
何らかの点で我々の問題を解決してくれることを研究者は期待せずに
はいられないと思われるからである。
本発表はこの難点の解決の糸口として、D・ヘンリッヒのカント
倫理学解釈を考察する。その際、ヘンリッヒは哲学研究者であると
同時に、哲学者としても扱われる。ヘンリッヒは彼自身の「主体性の
哲学」という背景からカント倫理学を解釈しようと試みるのだが、
それによってヘンリッヒは、文献に基づいた正確な解釈と自らの哲学的
思考を結びつけることに成功しているように思われる。本発表は
ヘンリッヒがいかに自身の哲学的思考から古典哲学への接近を行う
のかを、カント倫理学のケースにおいて見ることで、古典哲学解釈に
おける方法について反省することも試みたい。
【参考文献】
- D・ヘンリッヒ『カント哲学の体系形式』門脇卓爾訳
(理想社、一九七九年)
- D・ヘンリッヒ『フィヒテの根源的洞察』座小田豊・小松恵一訳
(法政大学出版局、一九八六年)
- Dieter Henrich, Denken und Selbstsein. Vorlesungen uber Subjektivitat,
Frankfurt am Main 2007.
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