第六一回
【第一部構想発表】
「善さと無限な時間
――レヴィナスによるカント読解を手がかりに」
田中 隆伯
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レヴィナスのテクストには、主著である『全体性と無限』にあって
すら、顧みられることのない論点がいくつも存在する。その原因の
一端は 、そこで展開される議論が、哲学史上のどういった問題に
応じるものであるのかということが明示的には示されていない点に
あるように思われる。だが、そのようなかたちで進められる議論で
あっても、それが参照されるべき他の哲学的な議論を想定すること
なしにレヴィナスによって語られているとは考えにくい。論述に
おいて語ることが問いかけることでもあるのならば、それは、すでに
問われどこかで語られたことの反響をすでに内に含んでいるのでは
ないだろうか。
本発表では、レヴィナス自身によるカント読解を傍証のひとつとして、
レヴィナスのテクストのなかにありうる読解の可能性を探っていくこと
にしたい。例えば、レヴィナスの講義録におけるカント読解が「最高善」
や「希望」といった論点に集中していることが手がかりのひとつとなる
だろう。そういった作業のなかから、レヴィナスが踏まえていたであろう
問題意識へと接近し、『全体性と無限』においてレヴィナスがなにごとか
を語りだそうとするその地点へと迫っていくことを試みたい。
【参考文献】
- レヴィナス『全体性と無限』熊野純彦訳
<岩波文庫>(岩波書店、二〇〇五年)
- レヴィナス『神・死・時間』合田正人訳
(法政大学出版会、一九九四年)
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【第二部発表】
「自己認識と行為
――シェーラーの自己錯誤論の倫理学的射程」
宮村 悠介
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いわゆる「心情倫理」と見なされる倫理学説において、自己
の心的なものの認識の可能性は、厳しく吟味されることなく、
あいまいに前提されることが多いようにおもわれる。しかし自
分自身の心情を確実に知ることは難しい。徹底した哲学的な分
析によって、自己の心的なものの認識の特権的な確実性が否定
され、そうした認識の原理的な困難と限界が示されるならば、
先の倫理学説は重大な問題に直面し、動機や行為といった諸概
念の再検討が必要となるはずである。
本発表はこうした問題意識のもと、マックス・シェーラーが
提起し分析する「自己錯誤」の問題と、この論点のシェーラー
自身の倫理学説への帰結を検討する。とりわけ、倫理において
「心術」(心情)こそが問題であり、しかしその「心術」を知
ることが原理的に困難であるとする前提を、カントの倫理学説
と共有しながらも、シェーラーが提示する心術と行為との連関
についての、独自の理論に注目したい。以上の論点をめぐるシ
ェーラーの分析に学びつつ、自己認識の困難と限界に見あった
倫理学的思考の方向をさぐること、このことが本発表の主要な
課題である。
【参考文献】
- M.シェーラー「自己認識の偶像」
(『シェーラー著作集5 価値の転倒(下)』白水社、一九七七年)
- M.シェーラー「実質的倫理学と結果倫理学」
(『シェーラー著作集1 倫理学における形式主義と実質的価値倫理学(上)』
白水社、一九七六年)
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